精査中の雑多my blog

日本酒とUNISON SQUARE GARDENのことを考えて生きています。音楽が好きです。

仏教について。否、一遍について。

法然親鸞一遍

実家は浄土真宗の檀家で、僕の大学は浄土宗が母体になっているところでした。

ですが、個人的には時宗が好きです。

もともと一遍になんとなく好感は持っていたのですが、今年の春、奈良と京都に数日間のひとり旅をしたとき、最終日に訪れた京都国立博物館でやっていた特別展「国宝 一遍聖絵時宗の名宝」を観覧したのが決定的。

 

撃ち抜かれました。

 

一遍筆と伝わる「南無阿弥陀仏」にストレートを食らって、一遍の軌跡を描いた聖絵にフックを打たれてノックアウト。

 

図録を買うことなんてないのに即決してました。捨てなきゃいけないのにね。

ついでに面白そうな一遍の伝記も購入。

死してなお踊れ: 一遍上人伝

死してなお踊れ: 一遍上人伝

 

帰りの飛行機で号泣しながら読了しました。

アナーキズムとかはよくわからないけど、一遍というか時宗というか、踊念仏の身体性と原始的な感覚に「そういうことだよ!」となんだか納得。

踊念仏はファンクだぜー。

 

大学特定されそうですが、仏教系の大学の歴史学科にいたので仏教も歴史学のひとつとして大好きだったので、歴史的研究の一端として興味がある理解があるつもりでした。

自分の家の宗派についても基礎知識は持っていたし、一通りの仏教教義は知っていました。

が、自分でもここまで時宗に撃ち抜かれるとは。

冒頭にも書いた通り、自分は浄土教の三人に育てられたと勝手に思ってる仏教観。

ここで見出しの「法然親鸞一遍」の話になります。

法然親鸞一遍(新潮新書)

法然親鸞一遍(新潮新書)

 

 僕が時宗を好きになったのは、「エモーショナル」な部分。

この本で展開されていたのは三人を、三人の仏教観を比較してそれぞれの教義、信義を「アカデミック」にとは言わないが、検証・解説したもの。

 

法然は「悟り型宗教」を「救い型宗教」へと変えた人。修行して修行して、とにかくきつい修行をした人が偉い。という考えからそんなのより念仏を唱えたらいいのだよ。という教えを広めた。そりゃ流行りますよね。

ちなみに基本的に仏教は「悟り型」、キリスト教は「救い型」、神道は「つながり型」らしいです。

ここで語られるのは、鎌倉新仏教とは「落伍者」に救いを与える宗教ということ。

僕も含めて、普通の人は何日も絶食したり、寝ないで念仏を唱え続けたり出来ない。

でも、現代でもなんとなくそういう人が偉いって感覚はあります。

が、法然はそんなことしなくても往生できるのだよと手を差し伸べてくれる。

修行して悟りをひらくことを否定はしていません。

悟らなくても救われるよと光を与えてくれているのです。

もちろん、既存の仏教派閥からは大批判を受けてしまいますが、法然はきっちりと自分の信念を曲げずに真っ向勝負します。

それまでの平安時代の仏教は「鎮護国家思想」にも浮かぶように、密教山岳信仰、呪術的な要素も多分に孕んだ、もともとの仏教にいろいろくっ付けた大きなモノになっていたみたいです。

その中で「唯一・専心」を是とした「仏教純粋化運動」が鎌倉新仏教の本質のようです。確かにこれはとても革新的で、追随する人も多かったのではないかなと思います。

その証拠に、法然には数多くの弟子がいて浄土教は大きくなっていったようです。

それを深化させたと言われているのが親鸞

親鸞はとにかく自身というものを考え続け、「仏に背く(妻帯やらなんやら)自分とはなんなのか」「(妻帯やら悩んだりやらしている)自分の念仏はホンモノなのか」を昇華させて「煩悩があるからこそ悟りがある」「人間の人生とは真っ暗闇の中にいるようなもの、仏が照らしてくれるから自分の影(悩み)が色濃く見える。その代わりに光があるから道が見える」という結論を出した人。

考えすぎるのは僕も共感できるなと思いました。

二人をさらに進化させたとも、仏教を世俗に落としたとも賛否両論あるのが一遍。

一遍はもともと法然の弟子の弟子。浄土宗の出身です。

一遍は「信、不信問わず」信じても信じてなくても全てOK。「捨ててこそ」信心すら捨てても浄土に行けるぜ。「在俗(出家してない)でも、それにとらわれず往生できる人が最高。とらわれて往生できない奴が出家する」在俗でもそれが悪いとも思うな、悪いという心すら不要。仏に任せとけ。

ja.wikipedia.org

捉われなければ、往生できるぜ。立派な経典でも言ってるぜ。

一遍は空也などのいわゆる「聖」と呼ばれる人たちと同列に語られることが多いのですが、僕は浄土教で語られるのが正しいのかなと思います。

法然の教えに近くて「念仏を唱えてればいいけど、唱えなくても救われる!」「嬉しい!往生できる!踊ろう!」がシンプルな教えなのかなと。

踊念仏は人が往来する「市」や「辻」で行われていたようです。

人と人が行き来する「境界」。

なんやらわからないエネルギーがそこら中にあふれて辻に溜まっていたのでしょう。

そこで激しくダンスする集団。芸能にも発展する理由がなんとなく浮かびます。

「クロスロード」で悪魔と契約するロバート・ジョンソンみたいだなって思いました。

ja.wikipedia.org

そんなこと考えてたら「難しいことを考えるなよ。踊ってりゃいいんだ。」って言われちゃいそうですね。

でも、何も考えないでいるって難しいんだよ。

何も考えないでいられるのは、柔術をやってるときくらい。

踊念仏って柔術ですよね?

考えすぎるとまた怒られそうだな・・

 

 

うーん、やっぱり僕は一遍が好きだ。